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傍観者

ひとことも交わさず、
彼はただ、
グラスの中の氷を指でもてあそぶ。
この退屈なだけの時間が、
早く終われと願うように。
 
そんな彼を一瞥もせず、
彼女はじっと、
グラスの底から沸き上がる泡を見ている。
それが弾けて消えていくのを、
仕方ないと諦めるように。
 
幸せそうに笑い合っていた。
愛おしそうに寄り添っていた。
あれは、わずかに数週間前。
人の心は簡単に変わる。
互いに交わした想いの深さも、
共に過ごした時間の長さも関係ない。
あっという間に移り変わり、
もう二度と、もとに戻ることはない。
 
そんなふたりのラストシーンまで、
観客のいない舞台は続いていく。
空回りするBGMだけが賑やかな空間に
時折、カランと氷の音が混じり、
かすかなため息が吸い込まれていく。
 
沈黙に耐えかねたようにドアが開く。
場違いな明るい笑い声が、
凍った空気を押し流していった。
 
「いらっしゃいませ」
 
そのことばが合図だったかのように
彼女はスッと席を立った。
 
一度も視線を交わすことなく、
最後のセリフさえ言わずに、
迷いのない足取りで、彼女はドアの外へ消える。
それを待って、彼はぐいっとグラスを飲み干した。
 
「マスター、おかわり」
 
ゆっくりと幕が下りていく。
夜の闇に滲む恋の余韻だけを残して。

朗読/井せきただし