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引っ越しの夜 第1話

「オレ、今、見えちゃいけないものが見えちゃってる…よな?」

 ここは、イマドキありえないほどボロくて、狭くて、古い「メゾン・ド・ツバキ」。「つばき荘」と呼んだ方がだんぜんしっくりするアパートの一室である。さっき、思わずつぶやきをもらしたのは、本日、この部屋に引っ越してきたばかりの三十路男。名前は…まあ、いいか。

「おいおいおい、オレってそういうの見えちゃう体質だっけ? 初めてのひとり暮らしで、こんな歓迎、うれしくもなんともないんだけど?」

 彼がなぜ、この部屋でひとり暮らしをすることになったか。それをひとことで説明するなら、母親が死んだから。え、元も子もない? ならば、もう少し丁寧に状況説明をしてみよう。

 

ーー2週間前、女手ひとつでオレを育ててくれたおふくろがあっけなく逝った。

 彼を女手一つで育てた母は、つい2週間ほど前の朝、起きてくるなり「気分が悪い」と言ったかと思うと、パタリとリビングに倒れ込んだ。そして、そのまま帰らぬ人となってしまった。彼曰く、

ーー気がつけば葬儀の真っ最中で、救急車を呼んだことも、臨終に立ち会ったことも、葬儀屋の手配をしたことも、ほとんど記憶にない。誰かが身体を乗っ取ってすべてを仕切ったのだと言われたら素直にそれを信じられるくらいだ。

 遺影を見上げれば、母親が満面の笑みを浮かべていた。

ーー何だかすごく幸せそうだ。…って、そりゃそうだ。おふくろはようやく、ダメな男たちから解放されて自由の身になったんだから。

 家族を放り出して逃げたまま行方知れずのダメ親父に、大学まで出したのに就職もロクにできない息子。彼女の周りには見事なまでにダメンズばかり。いやむしろ、彼女自身がダメンズメーカーだった、のかもしれない。

ーーまったく…おふくろの男運の悪さには同情するしかない。でもな、おふくろ、もう苦労することも心配する必要もないよ。オレはひとりでちゃんと生きていくから…たぶん。

 正直、非常に心もとない。

ーー大学を卒業してから早7年。就職もせず、いや、できずにずっとアルバイト暮らし。おふくろ頼みの暮らしに終りがあるなんて考えもしなかった。

 そんな三十路男が、ひとりで生きていくって? 無理だと思うなぁ、それ。

ーーおふくろは心残りだっただろうか。こんな情けない息子を残して逝くのは。でも、おふくろには心安らかに眠ってほしい。

 そう願いながら、これから始まるひとりきりの生活に思いを馳せては溜息をつくこの男に、過度な期待は禁物だろう。

ーーオレ、いったいどうなっちゃうんだ?

 ほらね。

 

ーー自分のバイト代だけが頼りの綱となったオレに、2LDKのマンションを維持する生活力はなかった。

 母親を亡くした悲しみに暮れる暇もなく、彼は引っ越しを余儀なくされる。

ーー情けねぇ。心底情けねぇが。

 まあ、それが現実だ。

ーー家賃は管理費込みで月4万以内。敷金・礼金なし。風呂はあれば御の字。駅からは多少、いやそこそこ遠くてもよし。

 という条件を不動産屋にぶつけてみると、意外にもあっさりと条件通りの物件が見つかった。それが、彼の麗しの新居「メゾン・ド・ツバキ」である。そう、ボロくて、狭くて、古い6畳一間のアパートだった。