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引っ越しの夜 第4話

  ヘラへラするばかり父親に、イライラMAXの彼。

――こんなの、酒でも飲まなきゃやってられるか!

  とばかりに缶ビールを開け、グビリとやって喉を潤す。

 「ふぅ~」

  そんな彼を羨ましげに父親が見ていたが、彼は気づかないふりでグビリ、グビリと飲んでいる。しかし、じーっとまとわりつくような視線を投げかけてくる父親が気になって仕方ない。

――そういえば、酔っ払って転んで死んだとか言ってたよな。ってことは、無類の酒好きってことか。はぁぁ…ったく、しょうがねぇな。

 「飲みたいのかよ?」

  そう聞いた彼に向かって、父親はぶんぶんと音がしそうなくらい首を縦に振る。

 「うん、うん!」

 「子供かっ!」

――何だか怒る気も失せる。仕方ない。1本恵んでやるか。でも待てよ。ユーレイってどうやって缶ビール飲むんだ?

  なんていう疑問はとりあえず横において、彼は自分の引越し祝い用にと買った缶ビールを1本、父親の前に置いてやった。けれど、父親は物欲しそうに缶ビールを見つめるばかりで、手を伸ばそうとしない。

 「飲まねぇの?」

  彼のぶっきらぼうな問いかけに、父親は困り顔でモジモジと言った。

 「あのね、実は昔からプルトップ開けるのが苦手で。家にいるころはいつも悠美子さんに開けてもらっていたんだ。だからね、その…」

 「あんた、本当に何もできないんだな」

――オレたちを捨てた後、どうやって生きていたんだよ。いや、別にどう生きてたってこいつの勝手だし、オレには関係ねーけど。何があっても自業自得だし。だから、別に心配したとか、そういうことじゃねーけど。

  相変わらず物欲しそうに缶ビールを見つめる父親にため息をひとつつき、彼はプシュッとプルトップを開け、父親の目の前に缶ビールを置いた。すると父親はうれしそうに目を細め、缶ビールを持とうとする。その時、不思議なことが起こった。

 「え…っ?」

  缶ビールは床に置かれたままなのに、父親の手にはうっすらと、けれど確かに缶ビールの残像があった。それを、旨そうに喉を鳴らして父親が飲む。それは、何とも奇妙な光景だった。

 「深く考えたら負けだな。もう、何でもありか、今夜は」

  彼は父親が旨そうにビールを飲み干すのをじっと見ていた。

――もし、逢うことがあったら、恨み辛みの数々を延々と語って聞かせてやろうと思っていた。今がそのチャンスだ。おそらくもう二度と巡ってこない、最初で最後のチャンス…。

  けれど、彼の口から出たのは、どういうわけか恨みでも辛みでもなかった。

 「さっき、懐かしいメロディに誘われたって言ってたけど」

  唐突な問いかけに、父親はなぜかとびきりの笑顔になった。デレデレと甘ったるい笑みを浮かべたままで父親は少し遠い目をして言う。

 「あれはね、悠美子さんに贈ったオルゴールのメロディなんだ。初めてデートをした記念にね」

 

――初デートの記念に送ったオルゴールが『別れの曲』だと? 何だよ、その縁起でもねープレゼントは。センス以前の問題だろうが。

  心の中で力いっぱいツッコむ彼を無視して、父親はまだ、甘々な顔で話を続けていた。

 「ずっと貧乏だったからね、結婚指輪も買えなくて。結局、あれが最初で最後のプレゼントになっちゃったけど」

  筋金入りの甲斐性のなさに、彼は思わずめまいを覚える。

――何度でも聞こう。この男のどこに惚れる要素があったんだよ、おふくろっ!

 「ところでさ、悠美子さんは元気なの?」

  その言葉に、彼はポカンと口を開けた。

 「そう言えば、なんで家を出て一人暮らしなんて始めるの? たった二人の家族なのに」

 「は?」

 「悠美子さんが寂しがるじゃないか」

 「お、お前が、お前がオレたちを捨てたから、二人きりの家族になったんだろ? 自覚ゼロか。罪悪感ゼロか。信じられないくらい残念な男だな」

 「え、ま、まさか…悠美子さん、再婚…した、の?」

  この世の終わりのような顔をしている父親に氷点下の視線を送りつつ、彼は吐き捨てるように言った。

 「死んだよ。驚くほどあっけなくな」

  そのひとことに、父親はピキッと固まった。が、しかしすぐに笑って言う。

 「そんなイジワルはなしだよー。いくら冗談でも言っていいことと悪いことがあるって、悠美子さんから教わったでしょ?」

 「嘘でも冗談でもねーよ。おふくろは死んだんだ。もっとも、捨てた女房が生きてようが死んじまおうが、あんたには関係ないよな}

  彼の悪態に晒され、父親は、手にした缶ビールを取り落とした。

 「あ…」

  中身がこぼれて大惨事…になることはない。そもそも父親が持っていた缶ビールは幻のようなもの。かげろうのようだったそれはすっと、音もなく消え去った。見れば、床には相変わらず、開けたままの缶ビールが静かに置かれていた。

――黙りこんだオレをじっと見つめる親父の視線には、わずかに憐れむような、いたわるような色があった。

  それが意外に思えたのか、不快に思えたのか。彼は父親から視線をそらした。

 「そうか…悠美子さんはもう、ここには、いないのか」

  そう言った父親の声は少し震えていて、彼は思わず顔を上げる。すると、父親の穏やかな瞳とぶつかる。ふっと口元に小さな微笑みをのせて、父親は静かに、語り始めた。