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引っ越しの夜 第5話

「悠美子さんはボクらの高校のアイドルでね。みんなの憧れの的だったんだ。笑顔が可愛くて、仕草がキレイで、声もね、鈴を転がすっていうのかな、人の心を震わすように美しくて。ボクなんて到底、手の届かない人だったんだよ」

  初めて聞く父親と母親の出逢いの話。その先を促すように、彼は黙ってこくり、と頷いた。

「それに、悠美子さんはとても優しい人だったから、きっとボクを見過ごせなかったんだと思うよ。何をやってもダメな劣等生なボクを」

  父親は、愛おしいという感情を隠しもしない瞳で語り続けた。いつもかばってくれたこと。いつも助けてくれたこと。いつも励ましてくれたこと。

――聞けば聞くほど情けねぇ。最初っからいいとこなしじゃねぇか。この男の魅力を教えてくれよ、おふくろ。男の趣味が悪いにも程があるぜ。しかも、そんなおふくろを捨て置くとか、ろくでなし以外の何者でもないじゃないか。

  改めて、彼の心に父親に対する怒りがふつふつと湧いてくる。

 

「でも、そんな天使のような悠美子さんを捨てたんだよな、あんたは。捨てただけじゃない。死ぬまでずっと放っておいたんだよ!」

  彼の言葉に、父親は悲しそうな視線を返してよこす。

――そんな目をしたってオレは騙されねぇぞ。おふくろにした仕打ちを、簡単に許すと思うなよ。

「悠美子さんは…優しすぎた。だから、つい甘えてしまうんだ。いつもいつも、ボクは悠美子さんに寄りかかってばかりいて、それに耐えられなくなったんだ」

「はっ? なに綺麗事ほざいてんだよ。優しすぎたから耐えられなかった? バカにすんのもいいかげんにしろっ!」

  怒りに震える彼を悲しそうに見つめ、父親はこう続けた。

「それに、ボクが大きな借金を抱えちゃってね。友だちの保証人になって逃げられちゃってさ。あのまま一緒にいたら、悠美子さんに迷惑かけちゃうから、離れなきゃって…」

「身勝手きわまりない言い草だな」

  父親は、気まずそうに黙り込んだ。

「あんたがいなくなった後、おふくろがどれだけ苦労したか、わかんのかよ。たった一人で働いて、オレを育てて。文句のひとつも言わず、恨み言ひとつこぼさず、ずっと一人で頑張ってきたんだよ。あんたが、身勝手な理屈で逃げ出したから。全部、あんたのせいだろうがっ!」

  堰を切ったように止まらない言葉の礫に、父親はただ、打たれるままになっていた。うつむくこともせず、じっと彼を見つめたまま、指先ひとつ動かそうとしない。そんな父親に彼はますます苛立ち、言葉を投げつけていく。

「おふくろは、オレの前では絶対に泣かなかった。いつも笑ってた。オレを不安にさせないように。だから、オレもあんたのことは言わなかった。聞かなかった。あんたなんて最初からいなかった。そう思うしかなかったんだよ、オレも、おふくろも」

「でもな、時々、部屋で一人、おふくろが声も立てず、そっと涙を流していたのをオレは知ってる。あんたが贈ったって言う、あのオルゴールを奏でながら肩を震わせてた。あんな切ない背中を、オレは他に知らない。そんな思いをさせたのも、全部、全部、あんただよ」

  とめどなく加速していく彼の言葉は、後から後から溢れてきて、彼自身にも、もう止められなくなっていた。

「とんでもねぇろくでなしだよ、あんたは。最低のクソ野郎だ。死んでもあの世に行けないのは、心残りなんかじゃない。あんたは成仏できるような人間じゃねぇ。天国だけじゃない、地獄に行く資格もないんだよっ!」

  叩きつけるように叫んだ言葉に、父親の身体がゆらりと揺れる。その時、ぽとり、ぽとり、と父親の目から涙が零れてきた。

「あ…」

  けれど、その涙は床を濡らすことはなく、空中でキラリと光の粒になって消えていく。その現実味のない不思議な光景を、彼は少し唖然としながら見ていた。

  彼も父親も、しばらく言葉を発することはなかった。いや、できなかった。

――放った言葉を、オレは後悔も反省もしない。言いすぎだとも思わない。本当はもっと言いたいことが山ほどあるんだ。

  それでも、もう彼は父親に向かって言葉を投げつけることはできなくなっていた。

――あまりにも親父の姿が弱々しくて。そのまま消えてしまいそうだったから。い、いや、消えてもらったほうがいいんだけど。そうなんだけど…。

  天国でも地獄でも、あちらの世界へ旅立つはずの魂まで消えてしまいそうで、父親という人間のすべてが、かけらも残らず、完全に消滅してしまいそうで、彼は何だか怖くなってしまったのだ。

――恨んでいたはずの親父が、ユーレイになった親父が消えることが怖いだなんて、どうかしちまったんだろうか、オレは。

  混乱する彼の頭の中など知らない父親は、涙は止まっているものの、俯いたままでじっと床とにらめっこをしていた。