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引っ越しの夜 第6話

  時間はゆっくりと流れる。焦れたように父親を見る彼の視線に気づき、のろのろと顔を上げた父親は、くしゃりと泣きそうな顔で笑った。

「幸せに…なってほしかったんだ。悠美子さんには、誰よりも。だから、ボクが一緒にいちゃいけないと思った。どう考えても、ボクが悠美子さんを幸せにできるとは思えなかったからね」

「その意見には、全面的に賛同するが、だからと言って、黙って消えた挙句、それっきり音沙汰なしでいいわけがないだろ?」

  結局、言い訳だ。全部、父親に都合のいい言い訳。そう思うと、彼の声はいっそう低く、冷たくなっていく。

「離婚するなり何なり、もっとやり方があっただろう?」

――本当におふくろの幸せを願っていたというのなら、正式に離婚して赤の他人になるべきだった。普通の人間ならそうする。と言うか、そうしないわけがわからない。

  黙って消えた夫をあっさりと見放して、新たな人生を歩けるような薄情な人間ではない。むしろ、彼の母親はずっと待ち続けるタイプだ。

――史上最悪なダメ男を見捨てられず、結婚し尽くしていたおふくろが、そんなこと、できるはずがない。ちょっと考えれば、いや、考えなくてもわかるはずだ。それがどうして、目の前のバカにはわからなかったのか…。

「悠美子さんは優しすぎるから、ボクを見捨てられないんだ。どんなことがあっても、しょうがない人ねってボクを許してしまうんだ」

「それがわかっていて、なんでっ!」

「だからね、たぶん離婚をしたいと言っても、悠美子さんは頷いてくれなかったと思うんだ」

  都合良すぎる。父親の言葉に反発したい彼だったが、妙に納得してしまう。

「あぁ…、おふくろならそうかもな」

――あのおふくろなら、底が見えないほどのダメなこの男すら、見捨てることができなかったんだろう。あのおふくろなら…たぶん。

「それに、ボクは悠美子さんが大好きだったから、今でもすごく大好きだから、自分から別れようなんて…そんな悲しいこと、言い出せなかったんだよ」

「なに身勝手なことを! やっぱり、クズ野郎だな。結局、おふくろのことなんて考えてねーじゃん。あんたが辛かろうがなんだろうが知ったことかよ。何だかんだ言い訳したって、おふくろが死ぬまで放ったらかしにしてたのは事実だろ?」

  そう言い放った彼に、父親は寂しそうに視線をよこし、眉を寄せる。そして、もう一度、ポツリと呟いた。

「そうか…悠美子さんは、もうここにはいない、のか」

  その言葉を聞いて、改めて、母親はもうこの世のどこにもいないということが、彼の胸に落ちてきた。思わず涙が零れそうになり、グッと唇を噛みしめる。

――こんなヤツの前で、泣きたくなんかない。

  睨むような視線を父親に向けると、穏やかな瞳が彼を見つめていた。

「な、なんだよ」

  父親は、少し透けている腕を彼へと伸ばし、その頭をゆっくりと、少し遠慮しながらなでていく。まるでなぐさめるように、励ますように。

――感触なんてあるはずないのに、何だか…ぬくもりのようなものが、伝わって…くる。

  父親は黙って彼の頭をなで続けた。気がつけば…、彼は泣いていた。

――おふくろが死んだときも、葬儀の最中も、一滴の涙もこぼれなかった、のに…。

  彼の両目から、涙がとめどなくこぼれ落ちる。そんな彼の頭を、父親は何も言わず、そっとなで続けた。

「(嗚咽)」