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引っ越しの夜 第7話

――どれくらいそうしていたのか。いつの間にか、親父の手はオレの頭から離れていた。

  父親は缶ビールへと手を伸ばし、グビリとひと口飲む。そして、ホーっとひとつ息を吐き出した後、愛しい彼女との想い出を、ありったけ話し始めた。

――学生時代に憧れて、焦がれて、ひたすらにおふくろを見つめ続けていた日々のこと。結婚してうれしくて、でも、苦労しかかけられない自分が情けなくて。それでも、変わらずに笑顔を向けてくれるおふくろが好きで、好きで、大好きで。

  そんな話を、恥ずかしげもなく延々と、父親は彼に話し続けた。

――オレはと言えば、親父の情けなさに怒ったり、笑ったり。おふくろの突き抜けた献身ぶりに呆れたり、感心したり。

  缶ビールを何本も空けながら、彼は父親と二人で過ごすこのひとときを楽しんでいた。あんなに憎んでいたはずの男と二人、時間も忘れて…。

――もう、おふくろも親父も死んじまったんだ。今さら、恨みだの辛みだの言ったところで詮ないこと…だよな。

  不思議と彼の心は穏やかに凪いでいた。そしてふと、思い出す。

――このまま朝まで語り合うのはいい。いいが、このままユーレイな親父がここに住み着いちまうのは歓迎しない。だから、ちょっとばかり手助けをしてやらないこともない。

  ふと、会話が途切れた刹那、彼は父親に問いかけてみた。

「そういえば、あんたさ、心残りってやつは思い出したのかよ」

  そう言って父親を見た彼は、目の前の光景に一瞬きょとんとなる。そんな彼の様子を不思議そうに眺め、小首を傾げながらへにょんと眉を下げて、父親はやっぱりこう言った。

「んー、何なんだろうねぇ、心残りって」

  けれどその声は、これまでと違ってふわんと宙に浮いたように、頼りなげに響いた。声を発した父親自身も、一瞬、「あれ?」という顔をした。

――オレは、どんどん透き通っていく親父の身体を見つめながら、その事実を口にできずにいた。

  言おうかどうしようかと彼が迷っていると、父親はふと、誰かに呼ばれたように天井を見上げ、すぐにとろけるような笑顔を浮かべた。

「悠美子さんが、呼んでる」

  そう言うと、父親の姿はいっそう透明に近づいた。

「悠美子さんがね、迎えに来てくれるって。一緒に向こうの世界へ行こうって。だから、ボクはもう行くね」

  その言葉に、彼はなぜか慌て出す。

「ちょ、な、なんだよっ。勝手に現れて、好き勝手なこと喋って、いきなり行くねって、何だよ、何なんだよ、それっ!」

  父親は、相変わらずへにょんと眉を下げたまま、限りなく透明に近づいたその身体で、彼をそっと抱きしめるように包み込んだ。

――何だか身体がほわりと暖かい。やわらかい何かに守られてる、気がする。

  そのやさしい感触に、彼はまた、泣きたくなった。

「ずっと寂しい思いをさせて、ごめんね。頼りない、情けない、甲斐性もない、何もない親父で、ごめんね。キミを置いていってしまうこと、ごめんね」

  彼を抱きしめたまま、どんどん透き通る身体で、小さくなっていく声で、父親は彼に伝え続ける。

「ごめんね」

  離れていた25年を埋めるように、何度も何度も。

「ごめんね、ごめんね」

  その儚い声を聞きながら、彼は思わずポツリとこぼした。

「親父…」

  ビクリと肩を震わせた後、父親は抱きしめていた彼の身体をガバッと離し、その顔をじーっと穴があくほど見つめた。

「な、何だよ」

  そうして、父親はほとんど消えかった身体で、本当にうれしそうに、幸せそうに顔をほころばせた。

「ボクも、悠美子さんも、キミをずっと見ているよ。向こうに行ってもずっと。悠美子さんはこれまでと同じように。ボクはこれまでできなかった分も含めて、キミを見ているからね」

「何、言って…」

  その姿がもう消える、と思った刹那、父親は最後のひとことを、相変わらず、間延びした声で彼に残していく。

「ボクと悠美子さんはちょっと先に逝くけど、向こうでキミが来るのを待ってるからね!」

「バ、バカか。縁起でもねぇこと言ってんじゃねぇ。まだ死ねるかっ!」

  最後までトボけた言葉を残して、父親はスーッと静かに消えていった。

「まったく、しょうがねぇ男だな。サイテーで最強のダメ男だよ、親父は」

  そう苦笑いした彼が、カーテンもまだかかっていない窓に目を向ければ、もう朝日が登り始めていた。

 

「朝…か。そういえば、あんなに親父と話をしたの、初めてだったな。親父が出ていったとき、オレまだ5歳だったし。そんなガキじゃ話し相手にならねーよなぁ」

  誰に聞かせるでもないひとりごとが、彼の口から次々とこぼれてくる。

「あ、そういえば、親父の心残りって、結局、何だったんだ?」

  ふと口をついた彼の言葉に、どこからともなく、あの情けなくも憎めない声が返ってきた。

「大人になったキミとね、飲み明かしたいっていうのがボクの心残りだったんだって。悠美子さんがね、教えてくれたんだ」

「死んでもやっぱり、おふくろ頼りなのかよ。ほんと、この親父のどこに惚れたんだよ、おふくろ」

  そのとき、

――ふふふ、と笑うおふくろの声が聞こえた、気がした。

  最後の最後まで呆れることばかりだった親父。そんな親父を大きな、いや、大きすぎる愛で包み込んだおふくろ。もういない、もう会えない二人に向かって、彼はポツリ、と言葉をこぼした。

「まあ、二人で一緒に、末永く仲良く、成仏しろよ」

  明け始めた空に手を合わせた彼の顔は、やさしく微笑んでいた。

 

終わり