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忘れ桜

ちょっとやそっとの覚悟じゃ開かない重いドアを
少し気合いを入れて押し開けば、
その先に広がるのは、カウンターだけの小さなバー。
おひとり様が好むような洒落た雰囲気はないが、
場末の空気が漂う昭和レトロというわけでもない。
ただ静かにひっそりと存在している空間がそこにあった。

誰もいないカウンターに腰掛けると、
黙ったままマスターが、すいっとコースターを置く。

「いつもの、ください」
と言った後で、
「今夜は、少し強めで」
と付け加えた。

マスターは、やはり黙ったままでカクテルを作り始める。
その優雅な手さばきに、しばし見惚れた。
そっと音も立てず、
淡い、さくらの花びらのような色をしたカクテルが
コースターの上に置かれる。
ひと口含むと、懐かしい味が広がった。
甘さの後から酸味と苦みが追いかけてくるような
不思議な刺激を感じる。

「三年ぶりですね」
マスターが穏やかな声でポツリ。
そうだっただろうか、とぼんやり考えた。

カクテルグラスを傾けるたび、
心に澱のようにたまった悲しみが、
ゆっくりと濾過されて透明になっていく。
胸を締めつけるような痛みも、
ゆるやかにほどけて自由になっていく。

悲しみも、痛みも、苦しみも、
すべてを忘れさせてくれるカクテル。
「忘れ桜」を飲みに、私はここへやってくる。
今夜のように。いつものように。

心の片隅に残るあの人の笑顔が、
刃となって私を傷つけるけれど、
それも、あとひとときのこと。
すぐに消えてゆくだろう。
このさくら色のカクテルとともに。
 


朗読/山口龍海
朗読/山村怜央